HISTORY

六甲山の自然と人々の生活

 阪神間の町なみに沿って東西に広がる六甲山系。都市に暮らす人々の生活とともに時を重ねてきたこの山は、時代によってそのありようを大きく変えてきました。
いま私たちが目にする緑豊かな六甲山は、およそ100年前、明治30年代に始まった植林運動によって生まれた姿なのです。南側から見た当時の六甲山は、ところどころに芝草が生えている程度の、いわゆる禿山の状態でした。

 山裾に人々が生まれ暮らしてこの方、六甲山上の草木は建材、燃料等にたびたび利用され、原生林と呼べるものは現在ではほとんど残っていません。奈良時代にはすでに荘園として開墾され、自然植生であるカシやシイから、アカマツ、コナラなどの代償植生へと森林は姿を変えていました。原生林は繰り返し伐採されると元には戻らなくなり、ついには別の植物の林が生まれます。明治時代に植林が開始されるまでの1000年以上の間、こうした代償植生の木々が人々の生活を支えてきたのでした。

花崗岩と呼ばれる固い岩石
大阪城築城の際に、運ぶ予定だった石。石垣に使われず放置された石材は「残念石」と言われているが、400年経った今、歴史を感じる。

六甲山はかつて「むこやま」と呼ばれていました。語源としては諸説ありますが、一説には大阪湾の対岸にあたる神戸方面を「むこう」と呼び、そこに見える山として「むこうやま」と名づけられたのが始まりとされています。当時経済と政治の中心だった大和地方の近郊にある六甲山は、格好の資源地でした。平安時代には寺社仏閣の建立、戦国時代には山城が多く築かれ、戦いや復興のたびに樹木の伐採、石材採取などが行われ、周辺の村による入会権が発生してからは伐採や山火事の発生により、荒廃した土地が目立つようになりました。
また山道が開かれるにつれて、六甲山を挟んで南北の村々間でいさかいが起きるようにもなってきました。山菜やキノコなどの食料はもちろんのこと、炭作りに用いられる柴木、堆肥や飼料としての草の採取など、六甲山がもたらす恵は山裾に暮らす人々にとってかけがえのないものだったのです。

時代が下り南麓の村が街へと姿を変えてゆくにつれて、耕地は減り、南側の人々にとって六甲山の存在はそれほど重要視されなくなっていました。それに伴い山地の管理はおろそかになり、大雨による大規模な水害が頻発します。六甲山は花崗岩と呼ばれる固い岩石で形作られています。この花崗岩は新鮮な状態では非常に堅牢で、石材にも利用されている石なのですが、一方で水分に侵食されると手で簡単に崩せてしまうほど脆くなってしまう性質を持っています。崩れた花崗岩はマサ土と呼ばれる石英の粒でできた水はけのよい土に姿を変えます。六甲山はこのマサ土の薄皮によって全山が覆われており、木々が失われて表出したマサ土に大量の雨が浸水することによって、多くの洪水・土砂災害が発生しました。

A・H・グルームと観光地六甲山の始まり

植林が始まる30年ほど前、神戸が外国人居留地として開港されてしばらくの明治元年、一人のイギリス人が神戸の町を訪れました。アーサー・H・グルーム(1846~1918)です。後に六甲山開祖として親しまれる彼は兄の貿易会社を手伝うため、元町にあるお寺の離れに下宿していました。お寺の和尚さんとは大変親しくなり、同年には彼の勧めで大阪玉造の士族の娘、宮崎直と結婚し、日本に家庭を持つこととなります。
グルームと直はグルームが亡くなる1918年までのおよそ50年間つれそい、彼が日本の文化や風土に慣れるにあたって、大きな助けとして直の存在があったことが想像できます。兄が上海へと移った後は新たに会社を興し、商館を居留地の英101番に構えました。彼はここで貿易業の経営者として多くの日本人と交流を重ね、経営を軌道に乗せていくとともに、日本の風俗に親しんでいきました。

明治28年にグルームは六甲山頂の三国池周辺一万坪を借り、池の近くに和洋折衷様式の山荘を建てます。これが六甲山上に建てられた初めての人家である、とグルームの末子である宮崎柳が後年語っているように、生活と切り離された当時の六甲山頂は人足が多いとは言えない状態でした。居留地の番地に倣い「101」と呼ばれたこの別荘に、グルームは多くの外国人仲間を招き山頂生活を宣伝しました。明治40年ごろには50戸以上の避暑別荘が立ち並び、私費を投じて道路整備や植林を行ったグルームは「六甲山の市長」と称されます。こうして彼が行った活動は六甲山開発の基礎となりました。
明治の終わり頃から、六甲山は再び南側の人々の生活と関りを持ち始めます。そこにあるのは、かつての資源を供する山としてではなく、登山やウインタースポーツを楽しむ市民生活と結びついたレクリエーションスポットとしての六甲山の姿でした。六甲山に点在する巨岩は標として登山者に利用され、多くの名前が付けられました。また六甲山には山岳信仰の磐座が多く見られ、それらも名所として親しまれてきました。

六甲山頂三国池大スケート場。スケート・リンクとして賑やかだった。
澄み切った水面にくっきりと映る木々の影が実に印象的な現在の三国池。
現在はスケートができるほど厚く氷が張ることはなくなりました。

聖地としての六甲山

主に資源地として人々と関わってきた六甲山ですが、別の一面として信仰の場としての顔も持っており、六甲山の山頂や周辺には多くの社が残されています。奈良時代から平安時代にかけて六甲山は山岳修験の山として見出され、種々の宗派によって霊地と見做されました。仏教においては、平安時代に六甲山に連なる摩耶山で真言宗天上寺が中興され、再度山には空海が入唐の成就を念じて参拝し、帰国の折に再度登山し修業したという伝説が残されており、再度山と呼ばれる由来になったともいわれています。
また山裾の村にとって、六甲山は豊かな水を恵んでくれる存在でもありました。東六甲には石の宝殿があり、日照りが続き水が枯渇すると裾野の農民はここに参り、宝殿に蛙や沢蟹を塗りつぶして汚すことで神の怒りとしての降水を乞うた、という話が残っています。このように犠牲を伴い雨乞いや五穀豊穣を願う信仰は洋の東西を問わず各地で見られ、日本においては現在でも長野県の諏訪大社で蛙狩神事として受け継がれています。

DOKI ROKKO敷地に隣接するお地蔵様。信仰のある方々が今もお世話をしてくださっています。

これからのDOKI ROKKO

DOKI ROKKOは、“人の心の根源”に触れる場として日々変化しています。
敷地内には果樹を植え季節を感じ、ミツバチが運んでくる甘い蜜を食し、自生したお茶を飲む。
古代から引き継がれた豊かな自然を体感し、育まれてきた歴史を知り、人が集う。
これから繰り広げられるモノやコトをどうぞお楽しみください。

DOKI ROKKO敷地内に植樹した果樹。成長とともにこれからの歴史に刻まれます。